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【熊本地震 現地レポート】熊本地震ペット同行避難の現実 序章

はじめに:突然「被災者」になった日、災害が他人事ではなくなった瞬間

2016年4月14日午後9時26分。それは、いつものように自宅で過ごしていた時間に、突如として訪れました。経験したことのない激しい横揺れが、私を、そして熊本を襲ったのです。立っていることもままならず、物が散乱し、家がきしむ音とガラスの割れる音が恐怖を煽ります。これが、後に「前震」と呼ばれる最初の大きな揺れでした。

そして、多くの県民が恐怖と不安の中で夜を明かした16日の午前1時25分。さらに強大な「本震」が熊本を襲いました。立て続けに震度7を記録した「熊本地震」は、熊本県内で災害関連死を含め276名もの尊い命を奪い、20万棟近い家屋に壊滅的な被害をもたらしたのです。

それまで熊本で暮らす私たちにとって、地震災害はどこか遠い場所の出来事でした。阪神・淡路大震災や東日本大震災の悲劇を報道で目にし、心を痛めてはいても、それは「見ていただけ」の「他人事」でした。自らの日常が、生活の基盤が、一瞬にして奪われるという危機感は、正直なところ希薄だったのです。

しかし、この日を境に、熊本は一瞬で被災地となり、私たちは一夜にして「被災者」となりました。この記事は、熊本地震におけるペット同行避難支援の活動をまとめた記録であり、ペット防災がいかに重要であるかを伝えるための、実際の体験談です。

【第一章】震源地・益城町へ – 混乱の中に見えたペット同行避難

想像を絶する被災地の光景
 幸いにも私の住む熊本市北区は、震源地から少し離れていたため、甚大な被害を免れました。ライフラインが途絶し、絶え間なく続く余震に怯える不自由な生活ではありましたが、家があり、家族が無事でいる。それだけで、どれほど恵まれていたことか。当時、動物愛護のボランティアをしていた私は、「この状況下で動物たちはどうなっているのだろう」「自分にできることはないか」という強い思いに駆られました。

翌朝、私は被害が最も甚大であった益城町へと車を走らせました。道中は寸断された道路や倒壊した家屋で溢れ、普段なら約30分で到着するはずの道のりに、実に6時間もの時間を要しました。益城町に到着した際には既に日が暮れており、懐中電灯の明かりを頼りに見た光景は、にわかには信じがたいものでした。まるで映画の中にいるような、現実感のない感覚は、今でも昨日のことのように鮮明に記憶に残っています。町は至る所で家屋が倒壊し、橋は崩れ落ち、夜の灯りもない。時折響き渡る緊急車両のサイレン以外は、不気味なほどの静寂に包まれていました。

避難所でのペット受け入れ、その実情

到着後、直ちに役場を訪ねましたが、役場自体が被災し、災害対応でごった返している状況で、ペットに関する具体的な情報を得ることはできません。担当者の許可を得て可能な限り避難所を回ったものの、その日は同行避難しているペットを確認することはできませんでした。

しかし、この日から益城町の避難所が閉鎖されるまでの約半年間、私は毎日被災地でペット同行避難の支援活動を継続することになります。

翌日から、徐々にペットとの同行避難の状況が明らかになってきました。驚いたことに、益城町では複数の避難所でペットが屋内に受け入れられていたのです。学校の体育館にいたトイプードル、福祉センターの玄関ホールにいたポメラニアン、教室の中でおばあちゃんと一緒に避難していた柴犬…。

私が支援の拠点とした益城町最大の避難所「益城町総合運動公園」でも、発災直後からペットが避難所内で受け入れられていました。ここは体育館、多目的ホール、柔道場、図書館といった屋内施設が全て避難所となり、ピーク時には16,000人もの人々が身を寄せた場所です。その中心施設である総合体育館では、運営を委託されていたYMCAの責任者の英断により、発災直後からペットの室内同伴が許可されていました。

ただし、これはあくまで緊急的な措置です。ペットとの避難生活を想定した事前の計画があったわけではありません。他の避難所も同様で、事前に具体的なペット受け入れ計画があったのではなく、「大地震で家を失い、避難所に駆け込んだ被災者がペットを連れているから」という理由で、追い返すことができなかった、というのが実情でした。避難所運営者が「私たちはペットを受け入れません」という選択をせず、工夫して受け入れるという判断を下した結果だったのです。

屋内、車中泊、屋外…飼い主たちが迫られた過酷な選択

総合体育館の内部は、多くの人々が段ボールや毛布で仕切られただけの空間で、プライバシーはほぼありません。その中で、小型犬を中心に約20頭ものペットが、飼い主の傍らで息を潜めるようにしていました。見慣れない人々の往来、響き渡る様々な音、そして飼い主から伝わる緊張感。ペットたちもまた、極度のストレスに晒されていたことは間違いありません。そして、この体育館にさえ入ることができず、より過酷な状況に置かれた飼い主さんも大勢いました。

ペットがいるという理由で、避難所の駐車場で車中泊を続ける人々。
余震が続く屋外のフェンスに、不安げな表情の犬を繋留せざるを得ない人々。
ペットを倒壊の危険がある自宅に残し、毎日何度も避難所からお世話に通う人々。
特に、体格の大きい中型犬や大型犬の飼い主さんの多くは、たとえ室内への同伴が許可されていても、周囲への迷惑を考え、自ら厳しい屋外での生活を選択していました。また、普段は番犬として外飼いされている犬たちは、環境の変化で吠えてしまうため、飼い主さん自身が避難所へ連れて行くことを躊躇するケースがほとんどでした。

被災地で「ペットは家族だから室内に入れろ」と一方的に要求する飼い主さんには、私は一人も会いませんでした。そのような主張をしていたのは、被災地の現実を知らない一部の人々だけです。被災という極限状況の中、多くの飼い主さんは、誰にも打ち明けられない孤独とプレッシャーに押しつぶされそうになっていたのです。

【第二章】支援の輪と現実

益城町での活動を続ける中、私は福岡を拠点にペットのための支援物資を運び続けていたNPO法人の代表と出会いました。彼は発災直後からペット用品を車に満載し、自身は車中泊をしながら、益城町の避難所に物資を届け続けていたのです。動物愛護やペット支援の経験は浅かったものの、「隣県のために何かできないか」という一心で行動していました。

彼は各避難所や益城町に丁寧に説明を重ね、自治体や避難所運営者からの信頼を得ていました。その姿勢は、避難所の許可なく「被災ペット預かります」といった張り紙をする、一部の愛護団体の非常識な行動とは対照的でした。

彼が持つ物資支援のルートと、私が持つ全国の動物愛護ネットワークや熊本県とのパイプ。お互いの強みを活かし、私たちは連携して本格的なペット同行避難支援を始めることになったのです。

「飼い主の会」結成と信頼関係の構築

私たちはまず、避難所を管理するYMCA、そして行政である益城町と連携し、支援体制づくりに着手しました。最初のステップは、混乱の中にあった飼い主さんたち自身に、コミュニティを形成してもらうことでした。

体育館にいた飼い主さんたちに「飼い主の会」の結成を呼びかけ、共にルール作りを進めました。

散歩コースと時間を決め、排泄物の処理を徹底する。
ブラッシングで抜け毛が飛散しないようケアをする。
迷子になってもすぐに飼い主が分かるよう、所有者明示の迷子札を配布する。
当初、突然現れた私たち支援者に対し、戸惑いや警戒心を隠さない飼い主さんもいました。しかし、私たちは毎日朝から晩まで避難所に常駐し、物資を配るだけでなく、一人ひとりの話に耳を傾け、ペットの名前を覚え、共に悩み、考え続けました。その地道なコミュニケーションの積み重ねが、飼い主さんたちの固く閉ざした心の扉を少しずつ開き、やがて確かな信頼関係へと変わっていきました。

突きつけられた「退去命令」という壁

しかし、ようやく支援の形が見え始めた矢先、私たちは非情な現実を突きつけられます。発災から約1ヶ月が経った5月。「衛生管理」や「アレルギーを持つ避難者への配慮」を理由に、町から体育館内のペットたちに退去命令が下されたのです。

さらに、敷地内で同行避難テントを運営していたNPO法人ピースウィンズ・ジャパンに対しても、気温の上昇による熱中症リスクの高まりから、町から5月いっぱいでの撤退要請が出されました。

行政の判断にも理由はあります。共同生活の場において、すべての人々の安全と健康を守ることは最優先事項です。しかし、その決定は、ようやく安住の地を見つけたと思っていた飼い主さんたちを、再び路頭に迷わせるものでした。

「これからどうすればいいの?」 「あの子を連れて、今さらどこへ行けと言うの?」

体育館にいた16世帯、犬16頭、猫4頭。そしてテントにいた飼い主とペットたち。彼らの行き場が、またしても失われようとしていました。

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