熊本地震から10年:ペット防災の「建前」と「現実」を問う。本当に機能する支援体制とは
はじめに:10年という月日が問いかけるもの
来たる2026年4月、私たちは「熊本地震」から10年という大きな節目を迎えます。 震度7の激震が二度も襲い、多くの家屋が倒壊し、熊本の街が一変したあの日から、もう10年の月日が経とうとしています。
この10年という月日は、被災地にとって復興への歩みであると同時に、日本の防災対策、とりわけ「ペットの災害対策」にとっては、その真価が問われ続けてきた期間でもあります。 当時、被災地では多くのペット連れの被災者が行き場を失い、車中泊を余儀なくされ、あるいは壊れかけた自宅に留まるという選択を強いられました。その教訓から、国は動き、ガイドラインが策定され、「ペット防災」という言葉は一般にも広く知られるようになりました。
しかし、ここで私たちは冷静に、そして厳しく自問しなければなりません。 「ペットを取り巻く災害対策は、現場レベルで“具体的”に進んでいるのか?」
パンフレットは作られたかもしれない。マニュアルに一行書き加えられたかもしれない。しかし、今再び大災害が起きたとき、飼い主とペットは迷わず避難できるのでしょうか?避難所は混乱なく受け入れられるのでしょうか? この問いに対し、私たちは依然として厳しい現実と向き合わなければなりません。今回は、熊本地震の教訓と現状のギャップ、そして自治体が抱える「啓発」と「体制整備」の構造的な課題について、深く掘り下げていきます。
1. 熊本地震の教訓と「ガイドライン」の誕生
この10年間で、ペット防災の分野は制度上、大きな転換点を迎えました。その中心にあるのが、熊本地震の教訓に基づき策定・改訂された環境省の「人とペットの災害対策ガイドライン」です。
現場の声から生まれた指針
熊本地震発生後、環境省は同行避難した飼い主、混乱する現場対応に追われた自治体職員、そして避難所運営者などに対し、広範かつ詳細な聞き取り調査を実施しました。 当時、最大被災地である益城町でペット同行避難支援活動を行っていた私も、対面での聞き取り調査を受け、現場のリアルな惨状と課題を伝えました。
「ペット可の避難所がどこかわからない」
「受け入れを拒否された」
「動物が苦手な人とのトラブル」
「猛暑の中、屋外に繋ぐしかない過酷な環境」
こうした現場での痛切な検証を経て策定されたのが、現在のガイドラインです。これは、飼い主の責務だけでなく、自治体、獣医師会、そしてペット防災活動を行うボランティアに至るまで、災害時に誰が何をすべきかという具体的な行動指針を定めた、いわばペット防災の「羅針盤」となるべきものです。
「同行避難の備えチェックリスト」の提示
さらに取り組みを実効性あるものにするため、2021年(令和3年)には、環境省から全国の自治体へ向けて「同行避難への備えチェックリスト」が送付されました。 ここには、これまで曖昧だった部分に踏み込んだ、極めて具体的な項目が並んでいます。
事前の情報提供: ペットの受入れが可能な避難所等、および受入れができない避難所等の所在を公表していますか?
アレルギー対策: 避難所等で、動物アレルギーを持った方と動物との住み分け(ゾーニング)や動線を考えていますか?
避難環境の整備: 避難所におけるペットの飼養環境(スペース、資材等)の整備はされていますか?
在宅避難者支援: ペットのいる在宅避難者への対応方法を検討していますか?
国はここまで具体的に、「やるべきこと」を提示しているのです。しかし、これら全ての項目に自信を持って「YES」と答えられる自治体が、全国にどれだけあるでしょうか。残念ながら、その数は極めて少ないと言わざるを得ません。
記憶に新しい能登半島地震。
石川県が能登半島地震の検証報告書の中でペットの災害対策の課題として、平時の準備想定不足として「各市町で具体的なペット同行避難の方法が未想定」関係機関との連携では「獣医師会やNPOとの連携が必要だった」などが挙げられていましたが、それらの項目も、既に能登半島地震の3年前に環境省のチェックリストに明記されていた事項でした。
2. 自治体対応の「建前」と「本音」の乖離
国が具体的な指針を示し、チェックリストまで配布したにもかかわらず、未だに指定避難所でのペット受け入れ可否の明確な周知や、具体的な受け入れ体制の整備が行われていない自治体が多数存在します。ここには、行政特有の「建前」と「本音」の乖離が見え隠れします。
「避難所ごとの判断」という責任転嫁
多くの自治体は、ホームページや防災計画の中で「同行避難は受け入れます(原則同行避難)」と表明しています。しかし、いざ窓口で詳細を尋ねると、あるいは災害が発生した現場では、こんな言葉が返ってきます。 「実際の受け入れ可否や場所は、各避難所の運営委員会の判断になります」
これは一見、住民主体の民主的な運営に見えますが、その実態は「現場への責任の丸投げ」ではないでしょうか。 日頃から防災の専門家でも動物の専門家でもない、地域住民や施設管理者(学校長など)が運営する避難所組織に対し、何の判断材料もサポートもなしに「そっちで決めてくれ」と言うのは、あまりに無責任です。
避難所運営マニュアルの「形式的対応」
この「丸投げ」のエクスキューズとしてよく聞かれるのが、「避難所運営マニュアルに同行避難の項目を明記している」という声です。 しかし、そのマニュアルの中身を見てみると、「ペット同行避難の受入れ」「ケージに入れる」「飼い主が自分で世話をする」といった表面的な記述があるだけで、具体的に校舎のどこを使うのか、アレルギー対応の動線はどうするのか、溢れかえった場合はどう調整するのかといった「現場で使える具体策」には乏しいものがほとんどです。
スターターキット(ブルーシートやガムテープ程度の備品)を設置し、マニュアルに同行避難を書いておくだけで、「対策済み」としてしまう。あとは現場の努力任せ、ボランティア任せ。これでは、災害時の混乱を収拾することなど到底できません。
3. 「啓発活動」の形骸化:誰に届けるべき情報か
体制整備と並んで重要なのが、住民への「周知・啓発」です。しかし、この手法に関しても、旧態依然としたやり方が続いており、その効果には大きな疑問符がつきます。
パンフレットとイベントの限界
多くの自治体が行う啓発活動といえば、役所の窓口や動物病院にパンフレットを置くこと、そして年に一度の「動物愛護フェスティバル」などでパネル展示を行うことでしょう。 しかし、考えてみてください。動物愛護フェスティバルに来場するのは、元々動物に関心が高く、防災意識も比較的高い層です。パンフレットを手に取るのも同様です。
本当に情報を届けなければならないのは、「自分は大丈夫」と思っている層や、インターネットで能動的に情報を検索しない層です。 そうした人々に、従来の姿勢の広報で、本当に命を守る情報は届くのでしょうか?
ホームページ情報の「コピペ」問題
また、自治体のホームページに掲載されている「ペット防災」のページにも問題があります。多くのサイトでは、トップページから何回もクリックしてたどり着いた先に、環境省のガイドラインの概要をそのままコピー&ペーストしたような、一般的で抽象的な情報しか載っていません。
「備蓄をしましょう」「しつけをしましょう」 それはもちろん大切です。しかし、住民が災害時に真に知りたい情報は、 「私の家の近くの小学校は、ペットを連れて行っていいのか?」 「行ったらどこに案内されるのか?」 「雨風をしのげる屋根のある場所に入れるのか?」 という、地域に即した具体的な情報です。
環境省のチェックリストにあった「受入れ可能な避難所等の公表」が出来ていないために、ホームページの情報は具体性を欠き、結果として住民の不安を払拭できないままとなっています。これでは、本当の意味での「啓発」には繋がりません。
民間連携による「届ける」工夫
行政だけで情報を届けることには限界があります。だからこそ、民間との連携と活用が不可欠です。 地場の企業、地域のトリミングサロン、ペットショップ、ドッグトレーナー、そして自治会やマンション管理組合。普段の生活動線の中にある民間事業者やコミュニティと連携し、彼らを通じて情報を「届ける」仕組みを作らなければ、意識の低い層への啓発は成し遂げられません。日頃顧客へのアプローチを工夫している民間と自治体との啓発におけるスキルの違いは考えるまでもありません。
4. 避難所運営者への周知と支援の欠如
話を避難所の現場に戻しましょう。現状の最大の課題の一つは、実際に現場を仕切る「避難所運営者」に対して、ペット同行避難の意義と必要性が全く伝わっていないことです。
「被災者支援」としてのペット防災
避難所でのペット受け入れ体制を具体化するためには、まず自治体が、ペット同行避難を単なる「動物愛護(かわいそうな動物を助ける)」の問題としてではなく、「被災者支援」の観点から必要不可欠であることを、避難所運営者に周知徹底する必要があります。
国の防災基本計画においても、ペット対策は「被災者支援の観点から」推進することが求められています。 ペットがいるから避難できない、避難所に行けない。その結果、倒壊家屋の下敷きになったり、津波に巻き込まれたりする飼い主を出さないために、同行避難受け入れが必要なのです。また、避難所内でのアレルギー等のトラブルを防ぎ、動物が苦手な避難者の生活環境を守るためにも、管理された受け入れ(公助による管理)が必要なのです。
判断基準なき「現場判断」の残酷さ
現状は、こうした「なぜ受け入れる必要があるのか」という根本的な判断基準を持たない人たち(運営者)に、その場の判断を委ねています。 「避難所運営は大変なのに、動物なんてお断りだ」 そう考える運営者がいたとしても、責めることはできません。なぜなら、行政が「被災者の命を守るために必要だ」と説明していないのですから。
「人とペットの災害対策ガイドライン」の存在と、その背景にある過去の被災地での悲惨な現実。それを避難所運営者に丁寧に説明せず、「マニュアルに書いてあるから読んでおいて」で済ませていては、現実的かつ具体的な対応など取れるはずがありません。
具体的なアドバイスと支援体制の構築
さらに、ペット同行避難の考え方だけでなく、技術的な支援も欠如しています。 「ペットを受け入れるなら、体育館のこのデッドスペースを活用しよう」 「動線はこの渡り廊下を使えば、アレルギーの方と接触しない」 といった具体的なゾーニングの方法や、受け入れた避難所に対して行政がどのような物資や人的支援を行えるのか。そうした具体的なアドバイスを、自治体職員が現場に入って行う体制が必要です。 自治体には、避難所運営者に責任を押し付けるのではなく、伴走して課題を解決する「丁寧な対応」が求められています。
5. 対策の遅延と「実績作り」
熊本地震から10年。国から具体的な対策やチェックリストは提示されていますが、自治体の対応スピードはあまりにも遅いと言わざるを得ません。
もちろん、何も対策を講じていないわけではありません。多くの自治体でペット同行避難訓練が行われています。しかし、「訓練をやりました」「啓発パネルを展示しました」 そうした活動実績と、本質的な課題(全指定避難所での受け入れ体制の具体化など)の解決は別の問題です。
ペット専用避難所の「試験運用」が示すもの
その典型例として、一部の自治体で行われた「ペット同行避難専用避難所」の試験運用が挙げられます。 私は熊本地震の経験から、委員を務めている二つの自治体に対して、こう提言しました。 「専用避難所を完全に否定はしませんが、災害時の移動手段や収容数を考えると有効性に大きな疑問があります。一部の特別な避難所を作るよりも、身近な指定避難所でのペット受け入れ対策を整備することの方が優先順位は高いはずです」
しかし、試験運用は実行されました。その結果はどうだったか。 二つの自治体共に、災害時にその専用避難所を利用した飼い主は、ほとんどいませんでした。
本来であれば、「誰も利用しなかった」という結果を重く受け止め、立地が悪かったのか、周知不足か、そもそもニーズと合致していないのかを検証し、次のアクション(指定避難所の環境整備への方針転換など)を起こすべきです。 しかし、自治体の実績としては「ペット同行避難専用避難所の開設を行った」という事実のみが報告書に残り、真の課題解決へ向けた次の動きは見えてきません。 「あれをやった、これに取り組んでいる」で終わってしまっては、ペット防災は一歩も前進しないのです。
まとめ:災害対策の評価軸は「減災効果」のみ
ペットの災害対策は、趣味や嗜好の問題ではありません。被災者の「命」と「生活再建」に直結する問題です。 「これまでこんな取り組みをした」「今こんな検討会を行っている」というプロセスはもちろん大切ですが、災害対策の評価は、それらの活動量で測るものではありません。
「もし、今、大きな災害が起きたとして、10年前の熊本地震のときよりも、実際にどれだけ減災できるのか」 「どれだけ多くの飼い主が、迷わず避難できるのか」
それのみが、災害対策への真の評価となります。
熊本地震から10年。ペットの災害対策の具体策(チェックリスト)は、とっくに示されています。 私たちNPO法人ペット防災ネットワークは、形だけの対策や建前の議論ではなく、真に機能する受け入れ体制の構築に向けて、自治体や関係機関に対し、より一層具体的で実践的な提言とサポートを行ってまいります。残された時間を最大限に活用し、次の災害で「想定外だった」「準備不足だった」という言い訳を繰り返さないために。


